これを都市型の隠者生活と言おうかな。

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上野の絵描き村を出て2年半くらい。

わたしは一般社会っていうところの片隅に住んでいる。

 

なんか子どもの頃から、ずっと私は社会のすみっこに腰掛けて観察している感覚と共に、いつも自分は宇宙人でいいやと思っていたりもする。


私の生活を都市型の隠者生活と名づけたい。隠居ではなく隠者生活。

 

社会と適度に距離を取って、

ひとりぼっちでいることだ。

 

上野の絵描き村を出てから、この生活を始めて変わったことというと、圧倒的に考える時間が長くなったことと、1枚の絵を描くのにかかる時間が物凄い長くなった


単純に時間が無くなったということは、全くない。

朝、目が覚めたら目の前にキャンバスがいる。

 

それは自分が知らなかった世界の人たちと沢山出会うからで、その人たちに向かって、そのもっと向こうの見えない所まで行こうとすると、とても時間が掛かってしまう。

 

最近だと、近くにいた人にひとこと言いたくて描いていた絵が4ヶ月もかかっていた。

しかも皮肉なことに、もう近くにいないし、展示観に来てといっても来てくれないだろうから、今、言うかどうか迷っている。

 

こんなに遅いと社会に置いていかれそうな気もするけれど、置いていかれているなら、とっくに置いていかれてるだろうとは思う。

 

働きながらだと、本や資料を見たり探す時間が減りそうだけれど、絵描き村のときよりも何故か増えている。

研究者とか社会からちょっと外れたところで宇宙人をひっそりやっている友だちが増えた。あと下は10代、上は70代までとても広い世代や国籍の友だちたちがいるようになった。

都市に住んでいるので、たまにそういう友だちと会って情報交換をする。

 

会社のみなさんは絵を描いていることを結構知ってて、何でこんなところにいるの?とか笑いながら話したりする。

同僚の人たちとは土日に遊びに行ったりするくらい仲が良い。

 

なぜか幸運なことに、今いる会社は日本でこんなに穏やかな世界があるんかいというくらい平和な場所だったりもする。

 

家はシェアハウスで同じくして一般社会に属する人たちと暮らしているけど、色々生きてきた時間や価値観が違うんだなあという感覚はこっちのほうが突きつけられる。

 

生きることで大切にしていることは人によって違うんだなあと感じさせられるし、人に自分の大切にしていることを大切にはしてもらえるとは限らない。

最初から大切にしてもらえると思うのは間違いなく甘え。だったり、もしかしたらそんな大切にしていることが無い人の方が普通かもしれない。

ということをここに住んでいて理解した部分がある。

 

あと、ものづくりをしていないひとの何を人生の喜びに生きているのかが、全くよく分からない自分がいることに気づいた。これは何年掛かっても分からないかもしれない。

 

とはいえ、ここにいて出会った友だちたちが、日本各地から、世界のどこかにいても、わざわざお家に会いに来てくれたりする。

 

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私の生活は「作品と同棲している感覚」がずっとある。

 

今朝は、ポートレートの作品で被っているお面の置き場があんまりなので、高い位置に置こうかなと神棚代わりにしている窓の近くにひっかけようとした。でも、お面があんまりにも嫌そうな感じを出していてやめた。

 

窓辺の積まれた本の上に平置きされているのが心地よいらしい。

宙吊りにされているのは、あんまりいい気分はしないよなあと反省した。能面とかもそうだが、生きているお面はそれなりの扱いをしなきゃいけない。

 

そして昨晩は、新しいキャンバスが家にやってきた。

 

真っ白なキャンバスを置くと、部屋の空気が一気に変わっていく。また、恐ろしく考え込むことになるだろう。


一晩は何も手を入れないで、とりあえず一緒に過ごす。動物が家にやってきたみたいだ。