特別性を持ちたい心 制作メモ 2017.09.26

 

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特別性を持ちたい心

様々な世代のたくさんの種類の方々とよく話す機会が多くなって色々思うことが増えてる。そして、議論しつつ、あとで人間について分析することは頭の体操にとても良い。

 

最近すごく思うのが、誰しも有り触れた人生に対して特別性を持ちたいのではないかと。
そして、ある一定のいわゆる特別性を手に入れてしまった瞬間にある一定の河口に向かうようなものを感じる。
そこら辺、若干抜けちゃってる人も本当に珍しいけどいたりする。私は2人くらいしか会ったことない。

とはいえ平等に流れるように設定された時間を生きることには全く変わりはない。

この前、たまたま事業をしていたり、始める段階のほぼ同世代と話していて、自身のバックグラウンドと事業内容のリンクについての話になった。
そこで、バックグラウンドの強さについての話しになったのだけれども、私自身はそれについては至って普通な人生のワンシーンにしか感じなかった。
自分自身が作品の世界観を構築する関係もあるのですが、そこにあったのは誰でも経験しうるワンシーン。
自分自身のセルフイメージに値札や表札をかける安心感は誰しもが欲しいものなのかもしれない。

むしろ、そこに特別性があるとすれば、その「表現力もしくは共感性」がどれだけ長けているかという問題なのかもしれない。
特別性という点では物質的にどんなモノを持つことが出来るかというのもあがる。「ステータスとして」みたいな修飾語に集約されることだ。
その広意義でモノを所有することなのか、関係性を持つことなのか、欲求の方向の違いはあれど根底のエネルギーは同じ。

ちょっと話は変わりますが、0から1で物事を起こしたひとたち頭の中を覗いていると、セルフイメージをどこに置いてそこから大衆に対してどの角度から視点を持つかという点が結構特徴的だったりする。

セルフイメージ関連の色んな本が流行ってますけど、その本が持っている色を吊るしの服みたいに纏ってもしょうがないのではないかと感じる。
かといって思考するには労力が要るし、そこに創造性をいうても誰しもが持てたらこういうプロダクトは売れないだろうなぁとか。

悶々とこんなことを考えつつ、ちょっとベッドで微睡んでいて少しエスキースのイメージが出てきたけど、もっと負荷かけて頭回さないと描くまでには至らない。

 

そして、これ書きながら歩いてたら最大にコケる。

歩きスマホって良くないですね。