Young Creators Award 2018 後援賞•受賞のお知らせ
【受賞のお知らせ】
大阪MIギャラリー様主催のヤングクリエータズアワード2018にて、私の作品「ACCEPT TURE MY SELF」が後援賞をいただきました!
この作品はドラァグ クィーンに武装して社会と向き合う「彼女」とその内面の「彼」をレイヤー化して絵画にしたものです。
展示は11/30まで続きますので、是非ご高覧くださいますと嬉しい限りです。
Young Creators Award 2018
作品展示期間
2018年11月13日(火)~11月30日(金)
会場:MI gallery
■〒530-0047 大阪市北区西天満1-2-23 北浜ミトオリビル1F
■TEL/FAX:06-6362-0907
■アクセス:地下鉄堺筋線・京阪本線「北浜駅」26番出口より、難波橋(なにわばし)を渡って、全農(JA)ビルの手前を東に入り、一つ目の角(Label Cafe前)を北に曲がってすぐ (辻学園調理専門学校南側、赤レンガのビル1階)
■開廊時間:13時-18時 (土・日・月・祝日休廊 / 最終日~17時)
【ヘヴィメタルな女】 なぜ女は惚れた男に捨てられると怨霊と化すのか。
自分でもやってて毛穴から血が吹きだしそうになる恋愛分析。わたしがざっくりやってる副業の一部でもある。
今日はそんな怪談のひとつを書いてみた。
【ヘヴィメタルな女】
なぜ女は惚れた男に捨てられると怨霊と化すのか。
それは綺麗な別れ方が出来なかったセンスの悪い男と、諦めの悪い女の傲慢さが原因だと思う。
惚れた男には好きなうちは何とか目を瞑ろうとか、自分にとってポジティブに(なんとか都合よく)解釈しようと女は頑張るものだ。
その健気さたるや忠犬ハチ公もお手をしてくれるレベル。
まあとは言え、男のお熱が下がってくると、察しろよとばかりに、徐々にエサをあげた捨て犬を突き放すような行動をしてくる。
たまのエサをあげにきた男にしっぽを振る女。誰だ?貴女だよ。過去の私だよ。
お前が捨てた女だよ。
そんな男の心の中は、残念ながら自分のコトしか考えていない。"自分が敵になりたくない"という気持ちと"新しい女に行きたいというdesire"で満ち溢れているのだ。
こんな男に菩薩のような静寂な気持ちで、人にはメールを返さないクセに、さらっと合コンに行ってたことをポロっと言わせることなんて赤子の手首をひねるより簡単なコト。
よく考えてほしい。そんな男ハッキリ言ってセンスの悪いサゲでしかない。最後にしたセックスだってお肌なんも綺麗にならなかったでしょう?
貴女へのエサやりなんて死ななければいいとしか思ってないし、正直そのセックスは排泄しているだけなんだから。
(私は姐さん(おっさん)に男は排泄したい生き物だと思えと教えを賜っている)
そう。傷ついてる貴女の代わりに、
銀河系で一番ヘタクソだったよ♡って
1000000%の笑顔で言ってあげたくなる。
今までのも7割強くらいは演技だったんだよ♡偏差値MAXでも51くらいかな💀って。
つまり、あなたは排泄を扶助しているだけというか、それくらいしか出来なくなってる。もうこれは人権会議にかけなきゃいけないレベルの話。
どんなに優しい"善良な"男でも、こんな男に簡単になるもんだ。え?性悪説だって?
違うんだよ。
センスが悪いサゲ男の煮え切らない態度と、"ご自身の傲慢さ"から、それは貴女が【重たい女】になってしまったからなんだよ。
まさに重金属、ヘヴィメタルな女。
そんな重金属女が男の煮え切らない態度にしがみつけば、しがみ付くほど、その清らかなソウルジェムはどんどん濁って行き怨霊と化していく。そして見事に女もサゲとなる。
そう。この怨念。どこにぶつけて良いか分からないでしょう?
だからともかく、これ以上あなたの怨霊化を阻止しなくてはならない。
まず、あなたがなんでしがみつき続けてしまうかって言うのは、
「その男に幸せ(笑)にしてもらおう」だと
「人生バラ色(笑)に変えてもらおう」だとか
「ありのまま(笑)のわたしを受け入れてもらおう」
だとか、スーパー他力本願なあなたが居るからなんだよね♡
でもね、私は思うんだね。
それ、すっげぇ ゴ・ウ・マ・ンだねって。
それにね、その男そんなに大した男ではなかったんだよ。
冷静になってみると、あなたの方がスペック上だったりするから。大丈夫。安心して。
え、学歴?職業?見た目?
それ時価だから。
そしてね、あなたもその男も消費的な関係にしかなれなかったってことなんだよね。
残念チンチンなんだわさ。
だから先ずは、
あなたの幸せはあなたが作らなきゃいけない。
そして、"貴女があなた自身をしっかり愛さなきゃ、人は愛せない"
そんなあなたを大切にしてくれる男と一緒になりなさい。
頑張ってね。いつも応援しているよ🌱
ドラァグクィーンになろうと思うという話。
30代を前にしてドラァグクィーンになろうと一念発起しました。
ドラァグクィーン
ドラァグクイーンの起源は、男性の同性愛者が性的指向の違いを超えるための手段として、ドレスやハイヒールなどの派手な衣裳を身にまとい、厚化粧に大仰な態度をすることで、男性が理想像として求める「女性の性」を過剰に演出したことにあるといわれる。
本来はサブカルチャーとしてのゲイ文化の一環として生まれた異性装の一つであるため、ドラァグクイーンには男性の同性愛者や両性愛者が圧倒的に多い。しかし近年では男性の異性愛者や女性がこれを行うこともある。また趣味としてこれを行う者からプロのパフォーマーとして活躍する者まで、ドラァグクイーンの層も厚くなっている。
MtF のトランスジェンダー(肉体は男だが心は女である人)が女物の服を着るのは「女性になる」または「女性として見られる」ことが目的であるのに対し、ドラァグクイーンのそれは「女性のパロディ」あるいは「女性の性を遊ぶ」ことを目的としている点が大きく異なる。
ドラァグのメイクを自分にしていて感じたこと。それは物凄い健康的で開放的な気持ちになれたことでした。
女性も男性も一回体験してみた方が良いです。
"あ、ジェンダーってこんなに愉しいものなんだな"と理解することができます。
Dragは女性の美を強調して鋭利にしたパロディ文化で、シス男性社会に対するアンチテーゼを含んだ美しき表現だと私は思ってます。
少なからずとも、だれしも社会が求める女性であったり、男性で在り続けなくてはならないことに生き辛さを感じたり、嫌になったりしたことはないでしょうか?
私は、気づかないレベルでのそういう気持ちが実は、差別を生んだり、自分とは違うものに対して優しさを持てない原因を作っていると考えています。
ドラァグと普通のメイクが決定的に違う点は、その派手さではなくて”性を超越していく”ところにあります。
普通のメイク、女性の大半は自意識を守るためにメイクをしている部分があるでしょう。
というか、そういう気持ちで少なからずとも十数年していた自分に気づきました。
綺麗にみられたいとか、愛されたいとか、可愛く写真に写りたいとか。求められる女性を演じている自分になるためにあったのです。
簡単に説明すると自撮りの写真ってみんな表情が大体一緒じゃないでしょうか?
そんな感じです。
若い子でも、年齢を重ねていても関係なく怨霊みたいに、そういうものが沢山の日本にいる女性にへばり付いているように感じます。凄く自己肯定感が持てない、心細い状態。
それには「女の子は化粧しない方が良い」とか「ナチュラルメイクが良い」とかいうロリコン日本男性陣の呪いみたいなものも含まれていて、メイクはもはや自己防衛の手段のようになってしまっています。
そういうセリフの中にあるものが、本当のわたしでない「求められた女性メイク」にさせていたり、自らがなろうとしてしまっている。つまり、女性と男性の両方サイドからのこれは呪いだと思います。(なので、めんどくさいので私はよくすっぴんで現れます。笑)
同じようにして、男性陣も”求められた像”になろうとして見事に拗らせてしまっているということでもあるでしょうし、生き辛さを感じてしまっていますし、普通の男性は圧倒的に生き方に多様性がないことに気づいていなかったりします。
これはお互いがお互いを窮屈にしてしまっているということではありませんか。なんて窮屈なことでしょうね。
その中で性を超越していく原体験は、自身のジェンダーや生き方をポジティブに向き合っていくきっかけになるのではないのかなと私は考えています。
ドラァグのメイクをしていると自由な表情で写真にもどんどん写りたくなります。ともかくメイクが愉しい。
体形だって、胸無きゃ盛ればいいし、無いのも無いのでセクシーですからね!💚
そんなワケで、研究していこうと思います。
これを都市型の隠者生活と言おうかな。
上野の絵描き村を出て2年半くらい。
わたしは一般社会っていうところの片隅に住んでいる。
なんか子どもの頃から、ずっと私は社会のすみっこに腰掛けて観察している感覚と共に、いつも自分は宇宙人でいいやと思っていたりもする。
私の生活を都市型の隠者生活と名づけたい。隠居ではなく隠者生活。
社会と適度に距離を取って、
ひとりぼっちでいることだ。
上野の絵描き村を出てから、この生活を始めて変わったことというと、圧倒的に考える時間が長くなったことと、1枚の絵を描くのにかかる時間が物凄い長くなった。
単純に時間が無くなったということは、全くない。
朝、目が覚めたら目の前にキャンバスがいる。
それは自分が知らなかった世界の人たちと沢山出会うからで、その人たちに向かって、そのもっと向こうの見えない所まで行こうとすると、とても時間が掛かってしまう。
最近だと、近くにいた人にひとこと言いたくて描いていた絵が4ヶ月もかかっていた。
しかも皮肉なことに、もう近くにいないし、展示観に来てといっても来てくれないだろうから、今、言うかどうか迷っている。
こんなに遅いと社会に置いていかれそうな気もするけれど、置いていかれているなら、とっくに置いていかれてるだろうとは思う。
働きながらだと、本や資料を見たり探す時間が減りそうだけれど、絵描き村のときよりも何故か増えている。
研究者とか社会からちょっと外れたところで宇宙人をひっそりやっている友だちが増えた。あと下は10代、上は70代までとても広い世代や国籍の友だちたちがいるようになった。
都市に住んでいるので、たまにそういう友だちと会って情報交換をする。
会社のみなさんは絵を描いていることを結構知ってて、何でこんなところにいるの?とか笑いながら話したりする。
同僚の人たちとは土日に遊びに行ったりするくらい仲が良い。
なぜか幸運なことに、今いる会社は日本でこんなに穏やかな世界があるんかいというくらい平和な場所だったりもする。
家はシェアハウスで同じくして一般社会に属する人たちと暮らしているけど、色々生きてきた時間や価値観が違うんだなあという感覚はこっちのほうが突きつけられる。
生きることで大切にしていることは人によって違うんだなあと感じさせられるし、人に自分の大切にしていることを大切にはしてもらえるとは限らない。
最初から大切にしてもらえると思うのは間違いなく甘え。だったり、もしかしたらそんな大切にしていることが無い人の方が普通かもしれない。
ということをここに住んでいて理解した部分がある。
あと、ものづくりをしていないひとの何を人生の喜びに生きているのかが、全くよく分からない自分がいることに気づいた。これは何年掛かっても分からないかもしれない。
とはいえ、ここにいて出会った友だちたちが、日本各地から、世界のどこかにいても、わざわざお家に会いに来てくれたりする。
私の生活は「作品と同棲している感覚」がずっとある。
今朝は、ポートレートの作品で被っているお面の置き場があんまりなので、高い位置に置こうかなと神棚代わりにしている窓の近くにひっかけようとした。でも、お面があんまりにも嫌そうな感じを出していてやめた。
窓辺の積まれた本の上に平置きされているのが心地よいらしい。
宙吊りにされているのは、あんまりいい気分はしないよなあと反省した。能面とかもそうだが、生きているお面はそれなりの扱いをしなきゃいけない。
そして昨晩は、新しいキャンバスが家にやってきた。
真っ白なキャンバスを置くと、部屋の空気が一気に変わっていく。また、恐ろしく考え込むことになるだろう。
一晩は何も手を入れないで、とりあえず一緒に過ごす。動物が家にやってきたみたいだ。
「世の中のコンプレックスを持つ女どもよ!そのコンプレックスは永遠と無くなるわけない!。己を呪うか、諦めて、せいぜい身のなりの人生を受け止めろ」 【宇宙を駆けるよだか 】レビュー
先日、おうちのリビングで妹分のMちゃんがNETFLIXでドラマを観ていたので、何ぞなんぞ?とおしゃべりながら鑑賞しました。
少女マンガ原作のドラマであらすじをざっくり書くと、
火賀俊平、水本公史郎、小日向あゆみは幼馴染み。
ずっと想いを寄せていた公史郎と恋人同士になったあゆみだったが、初デートの日、醜い容姿を持つクラスメイトの海根然子と体が入れ替わってしまう。誰もそのことを信じないなか、火賀だけは入れ替わりに ...
https://yodaka-switched.com/
というSFチックなお話なのですが、このお話、はっきり言うと、
「世の中のコンプレックスを持つ女どもよ!そのコンプレックスは永遠と無くなるわけない!。己を呪うか、諦めて、せいぜい身のなりの人生を受け止めろ」
という救いのないパワフルな少女マンガ的なお話なのでした。
わたしが観ていて感じたのは、
あゆみは、利己的な都合(社会)に対しての強者
海根さんは、利己的な都合(社会)に対しての弱者
という構図です。
うわあ残酷、、。
美人のあゆみは性格も真っ直ぐで、疑うことも知らず、恵まれた家庭で、、、幼馴染はイケメン2人(両方ともあゆみが好き)という、
まさに都合の良い少女マンガの典型的な主人公。
一方、海根さんは、その容姿がゆえに小さい頃から蔑まれ暗く卑屈な性格に、親は離婚し母親は情緒不安定でパチンコ通いと。
もし、貴女だったらどっちに感情移入してしまうでしょう?
私は悲しいけれど、あゆみには全く感情移入できなかったです。
まじかよーこれ、救い無いよおお、、と
叫びながら観てました。
なんかもう観ていて、海根さんが痛々しくて可哀想で仕方ない。
海根さんは、自分の置かれた過酷な環境に対しての、最後の抵抗で入れ替わりを実行したのでしょう。もはや、これは生存戦略といってもいいかもしれないなと。
しかしながら、そこで彼女は”淡い恋心を抱いた男の子の気持ちを手に入れること”しか欲さない。もう人魚姫みたいなものです。
しかも自分のコンプレックスの象徴でもある美貌をあゆみと入れ替わることで手に入れられたとしても、心の中の孤独や怒りは根本的にはだれにも理解してもらえない。
とりまく男(加賀、水本)たちも”結局はホンモノのあゆみに良く思われたい”という気持ちで色々動いているのは見え見えです。
そんなのね、少女だからといって気づかないわけがない。こういうことって、女性はめちゃくちゃ傷つくものです。
海根さんは悪い女になりきれない、無垢な女性なのかなと。もちろん、あゆみもそうなのですが、基本は二人とも無垢な少女。
強い者に優しくて、弱い者に残酷な世界そのものなんですよね、漫画の中なのに。
そんで更に、あゆみという像自体が社会の求める”理想像”みたいなもので、海根さんには何も多様性を与えられないんですね。
ここが一番救いが無いなと。
もうねあゆみになった海根さんに、いっそのことその身体使って、スーパービッチ化してしまって、そんなつまらない男に拘らず人生謳歌してしまえ!!
とか思うのは私だけでしょうか。
普通に考えて、あゆみは人間として、女としてしたたかで逞しいですし、真っ当に男を転がして幸せになれるでしょう?
その場合は火賀君とくっつくでしょうけど、彼は入れ替わってしまった彼女を”それでも愛している俺”という、セレンティビリティと人間的な信頼を得れるでしょうし。
これは邪推でしょうか、、笑
そんでもって、おそらく二人が入れ替わったまま人生を過ごしてきて、30代半ばくらいになって振り返ったときの物語。
ちなみに、あゆみは既にバツイチ子持ちで再婚して結婚8年目という設定。しかも幸せそうな感じに海根さんは改めて絶望する。
ところから、自身の生き方を問うことが始まる~みたいなストーリーを私だったら描いてしまいそうです。
もはや少女マンガではないですね。笑
自分の中のコンプレックスは色は少なくなったとしても、ずーっと付き纏ってくるものなのかなと感じます。
コンプレックスがどういう過程で生まれるかということを考えると
自分という存在が、他者の利己的な都合に晒されたときに作られていくものかなと。
利己的な都合は大体相手に悪気がないことの方が多いですから、意地悪いものです。
海根さんのようにひねくれてしまうのは、そういった悲しいことに触れてしまう機会が多かったのと、助けてくれる人が少なかったか、あまりに自分が無力だったからでしょう。
あゆみのように、無垢にしたたかな女になれたとしたら、、うーんどうだろ。一回くらいは、バンドマンとかアーティストのダメ男と付き合ってみても愉しいと思います。マジで成績の良い生徒に特に言うことがない教師の気持ちだわよ。笑
まーた、わたしはこんなこと書いているから”婚期を逃す”とか言われそう。笑
こういうことにモヤモヤするのも、立派に日本を生きているなとは思います。
なんかこう、すっごいマッシブじゃないと幸せじゃないのって苦しいよね。
女性差別とか色んな時事問題もありますが、やっぱりそこには、属性ではなくてマッシブさの呪いみたいなのがあるのかなと私は感じます。
本日はこのあたりでー
なぜ学校をつくりたがる人が多いのか。 制作メモ 2018.06.15
2018.06.15 06:56
筆持ったまま、考えごとが始まってしまう。
なんでみんなそんなに教育に携わりたいとか、学校を作りたがるのだろうか。
誰かのためっていうのは思考の中では表層に近い部分だ。もっと深くにシンプルな方向へ降りていくと何になるんだろうか。
先生になりたいから?
一番自分が長くいた社会組織で身近だから?
教育っていう自身の頭のDNAを残したいから?
エゴはいけないとか言うけれども、自分のエゴに気づかない方がよっぽど恐ろしい。
それに、歳を取ってきて自分の命が有限だと分かった瞬間に教育に目覚めるっていうのはよく分かる。
自分の精神の形を残せるっていうのは、かなり凄まじいことだ。
とことん共感という拡張の方向へ行くか、自閉という凝縮の方向へ行くかどっちかしかない。
どう頑張っても自閉的な方に自分が向かってしまう。
私の先生と呼んでる人は絵描きなのだけど、特に教育を施すこともなく、ひたすら私を保護してくれた人だ。
尊敬って言うのは多分凄いことをしたから尊敬するっていうのはあまり自分の辞書にはなくて、自分のことを守ってくれたから尊敬できる人になる。
あなたは人を守りたいのか、それとも自分のコピーをつくりたいのか。
男のひとのかんさつ 〜野心を飼う生き物〜
男のひとのかんさつ
私の趣味は”男のひとのかんさつ”だったりします。
自分も女性で、女だらけの中で育っているので、自分の中で欠損しているのが”男のひと”という生物に対する認識。
普通の女の子っていうのは、共生の方法を知らず知らずのうちに習っていたりしているみたいなのですが、私にとっては夏休みに一生懸命関わるカブトムシやクワガタムシみたいなもので、もうワケがわからないし、興味が沸く。
この摩訶不思議で単純な生物たちと、どうやったら共生していけるのだろう?
というのが人生のテーマのひとつでもあります。
本日はこの”男のひと”というものの観察日記を書こうかなと。
野心のある生き物
おじさんのお友だちたちとおしゃべりするのと、
まだ野心がメラメラになる前の10代の若い男の子とおしゃべりする
の実は話で盛り上がる内容が良く似ていたりします。
哲学的なという言葉っていうのが、カッコいい言い回しかもしれませんが、よくそういう話になります。それは、おじさんになると根源的でシンプルな部分に向き合える余裕が出来ていくのかなと感じています。
昨晩は、仲良しのおじさんから温泉で三時間ゆでだこになりつつ、神社通いをしていたら気づいたことがあったとご連絡。
「健康に感謝して、仕事とはなんだろうということを問いたら、出世の意味がわかった」
「おお!どんなことがお分かりになったんですか?」
「多くの人を幸せにすること
=出世
世を出れるのだ」
確かにこのおじさん、平日の昼間に世を離れて露天風呂で3時間ゆでだこになれるわけですもの。極楽極楽って、、良いなぁ。
「ではでは、おじさん、苦行する僧侶は?これ出家というみたいですけど」
「ううっ、、わからん」
「出家っていうのは、世から出て仏とか神の道へ行くことを差すそうですが」
「なるほどねえ」
「平安時代なんかは社会的構成員抜けるときみんな出家してたみたいです」
「うむぅ、、」
出世するには野心が必要と通説には言われています。
世を出るってことは、どんなことだろうと。
思うに、これは”野心離れ”をすることなのかもしれません。
彼らは野心を飼っている
男の人って生き物は野心っていう生き物を心に飼っている人を多く見ます。
野心っていうのは社会で、
凄くなりたいとか、
強くありたいとか、
大きく在りたいとか。
んで、この野心が一番元気になるのが20代半ばくらいからなんだなあとか感じます。
そして私も野心があるかなとか思っていたのですが、よくよく観察してたら全く別物だったということに気づきました。
わたしの野心っぽいものは、生きる上で、私にとっては特にモノを作るときに邪魔になるものです。
彼らの持っている野心っていうのは、もっともっとピュアでシンプルなのです。
ピュアでシンプルなパーツっていうのは、回路を作ったときにはあまり邪魔(抵抗)になりません。
それはつまり彼らの心のなかの野心ってパーツはエネルギーをある方向に安定させて放出させ続けさせる。
特徴としては、”レギュレータ(調節器)”みたいなものになっているのかなと感じます。
私にとってはこれに似たものっていうのが”レジスタ(抵抗器)”みたいになって熱を発してアウトプットを阻害するので、彼らのそんなピュアな部分がうらやましいなあとか思ったりしてしまいます。
確かに男の人の単細胞さに女性はがっかりすることが多いかもしれませんが、これは頭のつくりの違い。
筋肉の量が男性が多くなったり、女性が痛みに強かったりと構造の問題かなと。
もちろん個体差はありますから、女性でも筋肉が多い方がいたり、痛みに耐性が強い男性もいるでしょう。
そういったシンプルな自分とは全く違った生き物が持っている”野心”っていうものがあります。
野心っていうのは、彼らが社会という世界と出会うころから備わるパーツなのでしょう。
ちょうど、
冒頭で話していた10代の若い男の子のころに装着され始めて、
20代に入ってフル回転して機能するお兄さんになり、
おじさんになって機能がゆるやかになって、
おじいさんになると解脱する部品のようです。
野心というパーツは、レギュレータですから電流や電圧を一定に保つ装置です。
とくにこの機構が一番働いているときに弊害としてその分捨てる部分も出てもくるのかなあとも思いますね。
彼らの回路は直列ぎみに組まれておりますし、それはすなわちどんなに多くのエネルギーかけていてもそれはそのレギュレータのある回路に向かってのみ、かかってしまいがちと言うことでしょう。
ほかのところに気が回らないのが野心家の特徴っていっても良いかもしれません。
大体野心家はみんな若いうちは非情な奴らばっかりなのだそう。野心あまって家庭を顧みず、、ってことがあったりと。
あと、姐さまがいうに
こういう男のストライクゾーンっていうのは、1種類しかない。目は前しか見えない。
とのこと。笑
歳を取ってくるとやっと色々な女性や人間が見えてくるんだとか。
子曰、
吾十有五而志乎學、
三十而立、
四十而不惑、
五十而知天命、
六十而耳順、
七十而従心所欲、不踰矩
(読み下し文)
吾れ十有五にして学に志ざす
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳に順たがう
七十にして心の欲するところに従えども、矩(わく)を踰(こ)えず
孔子の論語の一節でこんな有名なものがあります。 この説はキャリア論として今でも良く使われる一節。
孔子は当時の平均年齢としては相当長い80歳すぎまで生きてまして、これはちょうど私たちの平均寿命っていうのと重なってますね。
なにか孔子を現代的に置き換えてみると、相当な野心家の男性だったのではないかなと
改めて、この文章を読んでみると、また野心というパーツが見えてくるものです。
こんな野心から離れて、誰かのために働くことが出来るようになるとき。
これを出世というのかもしれませんね。
また、出家についてはおじさんと今度ご飯食べに行くときにでも話してみようと思います。
楽しみにしてまするよー。笑