東京立ち食い蕎麦紀行【02 よもだそば 日本橋】2018.06.08

 

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歌川広重 :東海道五十三次 より 日本橋の朝

 

朝の通勤時間、浅草今戸から芝浦まで通っている私の通勤経路は何通りかあります。


一つは浅草まで歩いていって浅草線泉岳寺まで、もう一つは家の近くのバス停から東京駅八重洲口行きの都バスに乗って、浅草、蔵前、浅草橋、馬喰町(東日本橋)、日本橋、東京から電車に乗り換えて行く方法。

 

後者のルートは朝食を済ましついでに途中下車することも可能なルートでもあります。

そう、このルートはTGS(立ち食い蕎麦)出勤には打ってつけです。


毎日同じ場所に座ることが大変苦手な工藤にとっては、通勤を少し工夫して飽きないように生活することが大切。

TGS(立ち食い蕎麦)行脚をはじめようかなと思ったのも、都バス通勤をより楽しめるかなという工夫から。


ちなみに、都バスの八重洲口行きは20分に一本ペースなので乗り遅れられない感じではございますが、席にも座れるので朝の通勤ストレスも少ない東京駅までの約40分の旅。

 

日本橋 よもだそば】いろいろ野草のかき揚げそば+半カレー

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本日は東京駅八重洲口の1つ手前、日本橋のバス停で下車して、そばと本格インドカレーの「よもだそば」さんまで。
日本橋の長崎館の前でバスを降りて、八重洲仲通りをちょっと入ったところ。なんと、お隣はこちらも人気店の「一心たすけ」さん。


よもだそばは、国産のお野菜の天ぷらと、本格的なインドカレーを食べることが出来るTGSです。

 

本日のお目当ては6月から期間限定メニューの「いろいろ野草のかき揚げそば」です。400円。
東北から取り寄せた、オオバコ、ハルシオン、たんぽぽ、よもぎ、あかざ、ハコベが4~5種類ほど混ざったかきあげ。よもだそばさんの魅力は、季節に合わせた国産のお野菜がなんともリーズナブルに食べれることですね!

いろいろ野草も、東京で普通に暮らしておりましたらなかなか食べれないものです。

 

熱々のつゆの上に乗っかった野草天ぷらをぱくり。これは、サクサク系だ。
サクサク系の天ぷらは三段活用があって、

 

①初めは汁を吸う前のサクサク。
②蕎麦と一緒にしっとり。
③汁を吸って、ふわふわ。

 

という感じ。これは食べるペースが非常に重要となります。

なぜかと言いますと、この三つの配分が個人の好みなので、自分が多く味わいたいタイミングで口に入れなきゃいけない。
私はサクサク5、しっとり3、ふわふわ2くらいの割合で食べたい派なので、序盤はかき揚げ優勢で臨みます。

 

さてさて、これがTGSでの一番の面白み。

ここにはお蕎麦もいるのです。
私は、かき揚げを食べに来たわけではありませんから。かき揚げ蕎麦です。


麺がのびてしまったら美味しくないのがお蕎麦。そして、美味しさのハーモニーは食べ手に委ねられています。

 

1:序盤

かき揚
蕎麦
かき揚
かき揚
蕎麦

 

とテンポよく口に入れていきます。
ここでお気づきの方もいらっしゃるとは思いますが、今回、私は、よもだそばさんの自慢の本格インドカレー(半サイズ280円)もつけてしまっています。


このカレーね、蕎麦に合うんですよ。蕎麦屋のカレーって、もうね、ポジションで言うとシティーハンターで言う、香ちゃんなんですよね。
冴羽獠だけでも話は進むんだけど、香ちゃんいるから、彼がハードボイルド男になりすぎなく、とっても憎めない親しみやすくなって、すんごいカッコ良さ増しちゃってるという。なにか人懐っこいスパイス。


じつはよもだやさんの「よもだ」と言う言葉も愛媛の方言で、そんな「憎めない」とか「愛嬌のある」とかいうニュアンスの言葉なのだそうな。


シティーハンターではそんな「よもだ」な獠ちゃんになるのは、香っていうちょっとキュートでツンツンした女の子がいるからなんですね。

さて、よもだやさんのカレーは酸味のあるスパイス配合で辛さもなかなか。

ハンマーでガツーンです。

 

カレーの辛みを蕎麦と絡ませると、

まさに、シナプスが新しい回路を作っている。そんな出会い。うめええ!

冴羽獠が香と出会って変わるんだよ!始末屋じゃなくなるんだよ。

 

こんなカレーなる共演をしていくのが中盤。

蕎麦多めにカレーを挟みます。

 

2:中盤

かき揚
蕎麦
カレー
蕎麦
蕎麦
カレー

シナプスが新しい回路を受け入れて、カレーとの出会いは名コンビになっていく。ここで、ちょうどかき揚げも汁を吸って、ふわふわになってきています。うまうまと。


そう、ここから終盤、最終フェーズ。おつゆとカレーの饗宴!ここで、やっとカレーと汁が出会います。


これはね、シティーハンターで言う槇村秀幸、、

槇村君なのですよ。獠ちゃんの相棒でありながら、香の血の繋がっていない兄であることを隠し、序盤で麻薬組織に殺されるんだけど、これが全ての物語の始まりで。


第5話の香に形見の指輪を渡すシーンから後なんですよね。槇村くううううんん、、そして香は凛とした女性へと、、、号泣。という。

3:終盤

かき揚
蕎麦
カレー
蕎麦
カレー
お汁
カレー

 

完了。。っと。

 

初モノを食べると寿命が3年延びるとか言いますからね。お野菜を気張らず摂取できるのって素晴らしいですね。


シティーハンターも良い漫画でアニメですね。あ、ちなみにかき揚げは誰かと言いますと冴子ですかね。

まあ、過去のね、槇村君と獠ちゃんの、、、うん。

 

シティーハンター

是非ね、読んでみてくださいな。

笑止。

 

さて、ちょっとハードボイルドなTGSの朝を終えまして出社でございます。


シティーハンターの舞台、次は新宿でTGSしようかなと思います。

 

 

よもだそば 日本橋

住所:東京都中央区日本橋2-1-20八重洲仲通りビル1F
電話番号:03-3273-0505
営業時間:月~金7:00〜22:00 土日祝日10:30〜15:00

東京立ち食い蕎麦紀行【01 ひさご:浅草橋】2018.06.06

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浅草橋、秋葉原御徒町のTGS(立ち食いそば)激戦区をご存知でしょうか?


立ち食いそばって言いますと、

つい20年くらい前は女性が一人で入るようなところではない。とか言われていまして、

そういえば大衆酒屋もホルモン焼きも、、

敷居の低いところは、淑女にはなぜか敷居が高いというのが世の常な気もします。

 

私の幼少期は、蕎麦か湯豆腐かイカ飯とワンカップが大好物の祖父に溺愛されていたもので、そんな祖父に連れられて、お出かけは横浜:日の出町。

野毛山動物園のあとは決まってTGS(立ち食いそば)でかけ蕎麦。うどんを食べ物と認識するまでは大分時間がかかりました。

 

当時はカウンターの高さまで、まだまだ背丈が足りませんから、祖父はどんぶりを持って屈んで私にお蕎麦を食べさせていたのでしょう。

今でも「萌子~ほら食え~」という、背がすらっと高くて、何時もジーンズに白いシャツの祖父を鮮明に覚えています。

 

そんな思い出もあり、こういった庶民的で時間の匂いのするご飯屋さんに一人でふらっと入るのは、もはや趣味の一つでもあります。

 

東京はご飯屋さんがとても多いですし、特にこういった庶民的なご飯屋さんは下町付近に集中していますからね。

そして、銭湯もそうですが、町の色に紛れ込みながらひとりで愉しむ、自分にこういう趣味が多いっていうのは、都市部に育った一人っ子ならではなのかなとも思います。

女性でふらっと飯屋に入るのは、ちょっと小粋な趣味ってところに落ち着きますしね。

町の顔や時間に触れるのが大好きです。

 

 

【浅草橋 ひさご】天ぷら蕎麦

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さて、そんな浅草橋のTGS激戦区。浅草橋駅高架下は二つの老舗がございまして、今朝はその片方の「ひさご」さんへ。


入り口には味自慢ののぼり旗、べらんめえのおじちゃんと愛想の良いおばちゃんのやっているTGSでございます。

 

わたしが頼んだものは、

天ぷらそばの温かいの。340円。


お冷は生レモンが入っておりまして、セルフでポットから注ぐスタイルです。
頼んで間もなく、お蕎麦はやってきます。

 

桜えびの天ぷらは朝に揚げたてでございますから、何とも濃い江戸のお醤油かえしと濃いお出汁に絡んでぺろっと平らげてしまいそうになります。負けじと自家製麺のお蕎麦が年頃の乙女の様な艶肌でこちらも「私を食べて」と仰いますに、箸を持った木偶の坊はどっちが良いかと迷いつつも一心不乱に、品もなく貪り食ってしまうのです。

 

この店主のおじちゃんが常連さんと話しています。

 

「あれぇ、なんだっけ?三田線って言うのは横浜の方まで行けるのかい?」


「ああ、そうだね、途中で切り替わるんだね」


「俺は、よくのらねえからわからねえんだけど、三田で切り替わるんだろうな」


「乗り入れってやつだね」


「おうおう、そりゃ便利だな。そういや政府がハワイまで地下鉄乗り入れるとかってって言ってたなあ」 


「ハワイねえ。何だっけオアフ島かい?」


「そうだよ。オアフ島だよ。政府がねえ」


「それは便利なもんだ」

 

「俺もよう、そしたら一日乗車券でハワイまで行きてぇなあって思うんだよう」

 

あまりにも店主のおじちゃんの声が噺家さん。

そして後ろで女将さんが「うふふふ」と温かく微笑んでいるのが不意打ち。

わたしも、思わず笑ってそばを噴出しそうになってしまうのでした。

 

「大将、ごちそうさん!」


「おう!いらっしゃい!」
「え?!」


「今日は何食うかね?」
「あははは笑」


「ありがとうございました」
ごちそうさん~」

 

これは、私、とんでもないTGSに出会ってしまったと、残り少ないお蕎麦をすすりながら思います。


そして、お蕎麦を食べ終わりましてお店をでます。さてさて出勤です。

 

「ごちそうさまでした~」
「はいはい!ありがとね!」

 

もう、「ひさご」さんの大ファンになっている自分がおりました。都内の立ち食い蕎麦めぐり。

 

また朝やることが増えました。

 

ぼちぼち更新していこうと思います。

ハイパーグラフィアと狂人の空箱 「書きたがる脳 言語と創造性の脳科学」を読み進めて

ハイパーグラフィアと狂人の空箱


ハイパーグラフィアという言葉を知っているだろうか?

私自身も本書を読んで初めて知った症状だった。ハイパーグラフィアとは、脳の不具合から、文章を書きたい(表現をしたい)という抑えがたい衝動が起こり続ける「書きたい病」という病気らしい。


少なくとも社会の中、とりわけSNSで私たちが文章を書いて発信することはありふれている。だれしも「いいね」や「♡」を貰って、自己承認されたいという欲求を持つだろう。


そんな外の世界(それは小さい大きいとも関わらず)に向いて手を伸ばす。

それは、人としてありふれた欲求だ。


その欲求を根源に持つ、ひとつの方法として表現があると私は感じる。しかしながら、芸術といわれる表現になるまで強さのある表現に辿り着くことは、また別問題でもある。ここまで行くためには猛烈な筋力が必要となるだろう。


表現すること。

その根源はどこからやってくるのだろうと、本日は言葉を使った思考の散歩に出てみようと思う。

 

外の世界から眺める人


表現する人たちの中の世界から放り出されて、外の世界で外国人のようにして佇んでいると、それまで見えなかった世界を見ることになる。人間のその表層を越えて地下水脈ように流れる部分を探したくなる。表現したいという欲求に憑かれた人間は生きやすいのか、生き難いのか。思いをめぐらせながら本を開く。

 

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https://amzn.to/2LcXemT:書きたがる脳 言語と創造性の科学

 

今読んでいる、「書きたがる脳 言語と創造性の科学」( アリス・W・フラハティ著, 吉田 利子訳)という本は、著者で医師でありハイパーグラフィアであるアリス氏がその症状についての、病気と才能の間を考察し、創造性の根源ついて著した本だ。


ハイパーグラフィアとは、毎日圧倒的な文章を書かずにいられなくなる症状を持った人間を指しており、それは特に文章が上手な人がなるわけでもなく、誰かに読まれることや賞賛を期待することもなく、多くが自分の自伝的なことや感情を憑かれたように只管に書き連ねるという症状であるらしい。


また、それ自体に信仰的、宗教的な意味を持ち合わせており、重度の患者の場合、一種の自閉的空間を彼らは持ち合わせている。

ハイパーグラフィアはその中でも時代にあわせて人間の文章を扱う量に対して著しく多い人間とも言えよう。

 

彼らは脳の側頭葉に変異をもっていることが多く見られ、ハイパーグラフィアはてんかん症状もしくは躁鬱症状を持つ人間に見られる症状らしい。

 

先天的な身体的特徴と病気のあいだ

 

この本に出会ったのは、進化心理学認知心理学者のスティーブンピンカー氏のTEDにて、丁度彼の著書も読み進める傍らタイムリーに、脳は誰しもが平等に機能が備わった「空白の石版」では無いということをスピーチしているのを観ていたのもあり、興味が沸いて購入したのもある。


アリス氏の本は、表現することについて先天的な身体的性質と後天的な能力について考える上で、様々な思考を喚起させる本でもある。


著者はその症状を持った人間が持つハイパーグラフィア的な「書くこと」への素質を”情熱”と読んでおり、ドストエフスキーゴッホモリエールなど多くの表現者がその傾向を持っていたこと示す傍ら、その情熱は殆どの場合、見られることなく「狂人の空箱」へ葬られていくものでもあることを示唆している。

 

そして、その情熱は人間が持つ”世界と繋がりたい”という根源的な欲求が変容し具現化へ向かうエネルギーなのではないかと私は感じる。

 

そして、なによりもこの本を面白くしているのは著者自身が医師でありながら、精神病院に入院経験もある人間である彼女が、堂々と、投薬治療によって正気であるよりも、ハイパーグラフィアである狂気の中に合って創造性を働かせていた方が楽な状態でいれたということを記していることでもある。


もちろん数多くの文章家がその衝動について文章を残しているが、多くの音楽家や美術家にもハイパーグラフィア兆候のある作家は多く存在している。

その情熱が鍛錬により具現化しつつ一般化したものが現存している作品だとすれば、その鍛錬は環境によって齎され、情熱は本人の身体的特徴からなるものだと私自身の感覚からも感じる。


表現においてその過酷と思われる部分。

それは鍛錬の先にのみ、"その先"のフェーズへと繋がりが無いことでもある。その先は創造物との物質的な感動や人間との感動とも言えるかもしれない。


ハイパーグラフィアは適度な自己承認を欲するがゆえに書くことに根源に持たない、つまり、自他のコミュニケーションの方法として制御して書くことをしない。止むを得なく書いている状態でもあると著者は記す。それはアンデルセンの童話の赤い靴の踊り子で暗喩的に描かれた様な止め処も無い生理的反応でもある。

 

 

狂人の空箱と情報の川へ


多くのハイパーグラフィアがその情熱を燃やして書き連ねる文章は狂人の空箱に投げ込まれてきたのだろう。

 

そんなイメージが本を読んでいて浮かぶ。


インターネット上にいくらでも、こうやって自分の書いたメモを載せることが出来る時代において、その「狂人の空箱」は想像がつきやすいのではないか。

 

誰もが繋がりたい欲望をもち

それを具現化した箱に

人々は文章を書いて投げ込む。

その膨大な情報は空箱だ。

私たちが投げ込んだとしても

そこから同じだけの量の情熱は還ってこない

 

彼らの生きている時間を使って作られた、この狂人の空箱に投げ込まれる情報。儚くも脆い希望かもしれない。

繋がりたい。手を触れたいという表層にはない欲求を紙の上に広げる。

ただひたすらに拡げていく。


多くの祈りに似たそんな言葉たちは、どこに行くのだろうと私は水の流れを追うように眺めてみる。ハイパーグラフィアまで行かずとも、一般的な人が紡ぐ言葉の中にも、実は彼らの言葉に通じる川が流れているのではと私は感じている。

 

文字の咀嚼量の危うさ


こうやって、私の綴っている文字も含めて、この場所にある言葉はあまりにも脆いような気がしている。言葉は文字情報とも言われる。私たちが毎日接する文字といえば、スマートデバイスの画面上で流れる文字情報であり、言語や画像だ。一般にこれらのデバイスを使ってユーザが1度に読める文字量は500~1000字ほどといわれている。(実は私の書いているこの文章もここまでで約2300字を超えているので、画面というメディアに対して書きすぎなのかもしれない

そして私の出会う殆どのこういった情報がSNSを通して出会う情報でもあるだろう。

私たちが普段触れ合っている文字情報は、このような性質の情報処理を何個もこなしているだけとも認識できるだろう。


画面上に溢れている情報の性質に焦点を当てると、記事といわれる画面上の情報。

その文字量が減るということは、その一つの纏まり(群)としての情報自体は”節約された情報”になることを求められる。

 

これは、詩篇やキャッチコピーという名前のような文字列であること。つまり、それ自体が有機的で洗練された情報であることを差すわけではなく、食べやすく均等に整頓され、節約され単純化された情報という食物であるということでもある。

そして、この情報たちの存在は、この画面からSNSを通して繋がることのできる無限にある記事広告を想像してみればいとも容易く理解できる。


私たちの歯は、進化と共に食物に合わせて、顎を細く変化させてきている。それは食物自体が咀嚼力を必要としない方へ改良されてきた側面もあるが、言語においてはこの側面は一長一短でもあると言える。

つまり、画面上の記事を読む作業は情報処理量は多くなっているように見えるが、これは摂取している一つ一つの情報の有機的な多様性は均一化し薄くなっていることも指しているのだ。


画面に流れる情報に対して、本というメディアとの比較として文字量について考えてみる。

一冊の本は約350ページ×800~900字=30万字ほどになる。書物1冊で1つの思考を述べるにしても、1記事との差は30倍にも及ぶ。情報量の差は読むペースは個人に依存するとしても、その量だけ見ても二者には、読み取るために使う体力や、理解する過程で得る微細なニュアンスには差異が出るだろう。

 

私の読む速度は平均して学術系の本で時間当たり80~100ページほど、小説などで150ページ程なので、分当たりだと1100~1700字程度だろう。私自身私が日常的に本を読むようになったのは大人になってからの事で、その大きく多様性のある言語情報を扱う力は、大作の絵画を制作していくようになっていく筋力をつけることに近いこととも感じている。

 

文字情報の寿命と堅牢性


節約された情報を扱う短所を挙げるとすれば、そのような情報取得の中で、有機的で多様性のある情報を拾う能力が落ちる(慣れ親しんでいない状態になる)ことだろう。

そして、自身が持つ文字情報自体の堅牢性についても無頓着になるということを懸念せざろう得ない。特に個人の発信する(表現する)情報に対してその点が強く感じられる。


個人の発信する情報自体の堅牢性とは、その文字情報が持つ時間的な寿命を指す。例えばSNSにおける情報の伝達の寿命は即効性を持つが、殆どの弱小の情報は直ぐに伝達性を失い、膨大な情報の塊へと吸収される短い寿命の情報と言えよう。

 

それはつまり、情報の死。

その集積物となってしまった情報は実存性を伴わないことを示す。すなわち情報の特質として、SNS上の文字情報とは総体的な情報のかたまりとして情報自体が生命を持っており、その中で人間である私たちが生存していることも指している。

また、この中で最小単位の文字情報はこの大きな生命体の内で生存戦争を行い、殆どが命を失い集積物となる死を遂げる。

 

私たち一人ひとりが持っている情報という生命力をその総体としての情報の生命活動へ捧げているような状態であり、個人の生命に対してのある種の脆弱性を示唆する。どれだけ個人が堅牢性のある、文字情報を持ちえているだろうか?

 

絵画という文字情報、物質性について


絵画という文字を扱っていると、一つの情報を画面に定着させる際に、非常に有機的な物質性との関わり合いを求められる。

絵の具の粒子の大きさ、乾燥速度、支持体(画面)との関わり。これ自体が物質であるので、絵画は、それの持つ文字情報としての時間的な堅牢性を、体感的かつ物質的に扱い知ることが出来る。

絵画はその物質としての寿命を持つため、節約された情報に比べ、個として”生命力のある”(繁殖力ではなく)文字情報だと考えられる。これは書物にも同様なことが言える。


現在SNSのアクティブユーザ数は上昇の傾向を続けており、その生命体としての堅牢性は衰えを感じない。しかしながら、この10年後に、この巨大な生き物に対して、最小単位の情報がどこまで生存しているかと言う点、つまり私たちがバラエティを持ってアクセス出来るかと言う点では疑問が残る。


ハイパーグラフィアの連ねた文字と私たちが連ねた情報は、実は似つかわしくも、狂人の箱に放り込まれていく。そう感じてしまうのは厭世的すぎる見方だろうか?

 

物質性の中の揺らぎ


物質性には”揺らぎ”が生じる。この揺らぎは音に似た性質を持っているだろう。

思考から思考へと展開を重ねるその間の揺らぎを、書物の文章の塊に身を沈めるとき自然と読み手はその手で触れている。同じくして絵画のなかにもその”揺らぎ”が物質的に生じており、その生々しさへ手を触れている。

これは画面に流れる"画像の絵画"ではなく、"実像の物質絵画"を指している。揺らぎには種類があり、その個である膨大な情報から生じる揺らぎは、多くの時間を伴った揺らぎでもある。


時間は相対的ではあるものの、絵画における文字量と文章における文字量は、その「ゆらぎ」において似た性質を持っている。その密度や質において良し悪しがあり、その極地はLogos(ロゴス)という言葉に指される具現化されたものへ向かうことを示している。


ロゴス(logos)とは、古典ギリシア語の λόγος の音写で、

 

  1. 言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、言表、発言、説教、教義、演説、質問、伝達、文、口、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、神、運命、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮などの意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。
  2. 万物の流転のあいだに存する、調和・統一ある理性法則。
  3. キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。

 

ロゴス - Wikipedia

 


ゆらぎと言う言葉は量子物理学でも扱われる言葉でもある。「量子ゆらぎ」という言葉があり、ヴェルナー・ハイゼンベルク不確定性原理に説明される。量子力学に従う系に伴う物理量のゆらぎである。これは、測定値による誤差ではなく、量子力学的な効果によって、原理的に存在する、確率的なゆらぎを指すらしい。

 

量子論的ゆらぎ。無(真空)の中から、量子がゆらいでいるものとして存在し生産され引き伸ばされ続けるという事象があり、これは宇宙の始まりとしては有力な説でもある。

 

表現に向かう中で具現化される揺らぎはその始まりのゆらぎに、人間が立ち向かい出会う行為でもないかと私は感じる。

 

 

思考の散策そして狂人の空箱へ


大分遠くまで来た気がする。この文章も画面で読むには長すぎると感じるがここまでお付き合いいただいた方がいたら、一緒の景色を見れていればと思う。

無責任ではあるが、そろそろこの散歩も今回は終わりにしようと思う。


思考を言語化していく作業は、森の中をのろのろと駆けているような気持ちであったり、時には無機質で光の強い清潔な町のなかに佇んでいるような、様々な感覚になる。

 

そして、私がこうやって淡々としている文章も、いつかは狂人の空箱へ飲まれていくのではないか。

ハイパーグラフィアの感ずる表現で受けることの出来る信号とは、このような人間ではない何かに向かい、思考そして書き綴ることによって得る体験ではないかと考える。文字を綴ることは、そういった精神の不可思議な臨界点に近づく行為でもあり、揺らぎの中に自身の祈りを刻む行為でもあるのだろう。


実はここ2年ほど、絵を描くことに加えて、ほぼ毎日のように文字を書くか、どちらかをし続けないと、どうしようもない自分がおり、非常に近しい部分で、この二者の創造を行っていることに気づいてもいる。

 

私自身がハイパーグラフィアなのかは、なんとも言えない。しかしながら彼らの出会っている苦しみと喜び、果てに近づく感覚は共感できる部分があるのではないかと感じる。

 


さて、散歩を終えて帰ろう。

遠くに行き過ぎると自分を保てなくなりそうだ。


帰路。

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い靴の踊り子 2018.05.27

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2018.05.26

AM8:16


一生のうちで一番好きなことに出会えるっていうのはとても幸せなことだ。地獄でもある。

 


本当にやりたいことなのかどうか。

それは好きだから出来るんではなくて、そういうことを試されることが何度もあって、それでもやり続けて出来た筋力みたいなところからやってくる。だから結果的には好きって言葉になるのかなと最近思う。

 

 

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いい手が打てると、気が狂いそうなところから身体が少し軽くなる。すぐにベッドへ倒れこむ。

 

叫んでしまいそうなくらい痛くっても、

出会ってしまったら逃げちゃいけない。

 

 

 

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2018.05.27

AM7:16

 


私が好きになってしまったのは、物凄い孤独なことだ。ひとりぼっちだ。

 


厄介なのは、物凄く昔よりもひとりぼっちなのを嫌がる動物的な自分がいることだ。

 


どうせ一人だからとは思うけれども、

一人でいたら気が狂ってしまいそうだ。

と、そんな感覚が暴れ出す。

 

 

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今回描いている絵は、

そういった内面的な葛藤と自己鍛錬をモチーフにした絵だったりする。

 


作ってる私は、正直いうと地獄だ。

でも、紙一重でいい手が打てた時に、ほんのわずかな時間だけれど安堵した気持ちになる瞬間もある。

でも、まだ直ぐに次の手を考えなきゃ地獄がやってくる。

 


外の世界に出ていくと、真綿で喉を締められるような穏やかな地獄が広がっている。

だから、お腹の中のマグマみたいなところが、ともかく描け!と叫んでくる。

 


とはいえ部屋に篭って、こんなシンプルな地獄と天国に向き合っていることが幸せってのもなんか変な感覚だ。

 


アンデルセンの書いた、赤い靴の踊り子がずっと踊り続けたのは、靴が脱げなかったからで、踊るのをやめられなかったからなのではないかと思う。

 


時たま人と重なり合って靴が脱げた気がしたとしても、それは一瞬の気休めでしかない。

誰かを愛したかったら、踊り続けるしかないんだろう。

 

真夜中の指揮官 制作メモ 2018.05.25

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2018.05.25
AM0:08

 

余計なことを考えないように仕事で身体を疲れさせてベットに倒れこむが、起きてしまう。
頭のなかでもやもやしている部分が不気味な音を立て始める。

 

もし、あの人を失ったら、お前はどうする?
まだ絵を描いてるんですか?
嫌われるのがこわい。

 

何種類も同じような言葉がループして気が狂いそうになる。
暗くしている部屋にぼんやりと浮かぶ絵。
眼を開けて、絵を眺める。監守が命令してくる。

 

何をしてるんだ!筆を進めろ!

もやもやしている不安の正体を見極めろ!

絵から逃げるな!自分の弱さに負けるな!

 

と。張り上げた声が頭のなかで響く。
身体を起こして、筆を持つ。


人物の部分を描き始める。次はそこを描くのは分かっていても、さわるのを躊躇っていた部分だ。

 

その時がきた時は、従って描かなきゃいけない。絵は生き物だから。

朝だろうと、夜中だろうと、目の前にいて呼ばれたら真摯に答えなきゃいけない。

 

筆を持って、じっと画面を眺める。

今描こうとしているこの人は、どういう表情をして、身体をして役割を持ってるか定まっていない人でもあった。


けれど、この絵のイニシアチブを取る人なのは確実な人でもある。

 

その登場人物が男性なのか女性なのか、誰なのか。何を言っているのか。最初、絵の中の彼女は元々男性で、老いた指導者のような人物にしようとエスキースを描いていた。
けれども、それじゃあ全然弱い。もっと強くて自分たちに対して絶対的な人物じゃなきゃいけない。カドミウム系の不透明色の赤とアンバーを混ぜながら、筆を進めていく。


指先の向きや、手が示す表情を、ひとつひとつ絵がしてほしいことは何なのか、探っていく。

 

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AM1:12

画面の中に四本の腕を持った女性が現れる。
じっと彼女を眺めてみる。

 

もう、顔を描ける。描け!

 

彼女に顔が出来た。
この絵で初めて顔を持った人が現れた。
この人が絵のイニシアチブを取るのは間違いない。

不思議と、もやもやしていた時にループしていたものが消えていた。ベットに倒れこむ。
やっと眠りにつける。

 

 

 

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AM5:13

心強い指揮官が画面に居る。静かな朝だ。
彼女のおかげで、この部屋が守られた場所のように感じる。油絵の具の匂いと、平積みになってる本たち。自分に埋め尽くされてる。

 

絵は、精神と心のスポーツだと、大先輩の作家さんが言っていた。
一人で描く絵画という競技は個人技だ。

 

限界まで物凄い速さで走っていったり、
物凄い重さのものを持ち上げたり、
何処までも高く、遠くへ跳ぼうとしたり。
とても長い距離を走ったりするような。

 

私の友だちで車椅子レースの選手がいるのだけれども、彼とは初めて会ってちょっと話したら、一瞬でお互いのことがよく分かった。不思議だった。


同じようなことをやってるからだ。身体に無い部分があるからそれを超えるための、凄まじい筋力をつけなきゃいけない。

 

「僕には、これしか出来ないんです」

 

あっけらかんと笑って言う彼と、後ろで微笑んでいる彼女さんがちょっと羨ましかった。

 

描き切るまでともかく一人で戦う。

私の好きなことだ。

 

私のなかの女王さまに従え 制作メモ2018.05.24

 

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Renne de moisissure,
カビの女王さま
2015,oil on canvas 1170×2070×30mm

 

 

ちょうど三年ほど前に描いた絵。

アトリエで食べていたパンに生えた見事なカビから着想を得た絵です。


カビの女王さまは同じカビの仲間達を率いて、この世の終わりを前にして佇んでいる。

仲間は不安そうにも無邪気にも、

彼女を取り囲んでいる。
彼女は女王さまではあるけれど、

未だ自分が”お姫さま”であったことに気づかなかったのです。

 

当時こんな文章と共に描いた絵です。
絵の中の女王さまは紛うことなく私自身で。その先を予言したような絵になったような気がします。

 

 

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昨晩は友人の個展を訪ねてきました。
人の展示は年に2~3回くらいしか行かない出不精なので、久々に展示を見てきたことになります。
雨がしとしと降っている平日の夜、たまたま作家の大先輩やその生徒さんなども出くわして、そして、一緒にお食事と歓談。

 

最近は作家さんに囲まれた生活に非常に遠いところで日常を過ごしているので、

彼らのテンポ感というか、物質を扱っている人たちが持つ、根の張った感じがすごく懐かしくて心が穏やかになるものです。

 

毎日触れるもの、向き合うもの、過ごす時間で人の形は変わっていく。 

 

私が知っていて過ごしていた世界と、殆どの人はとても遠いところで生きていて、その遠くの世界にやってくると、私は外国人みたいな状態になります。


言葉が通じる場所にいても、そこは外国なことが殆ど。

私は絵描き村から来た外国人で、外の世界で過ごしているな、とよく感じています。

 

私が居た”絵描き村”の話をちょっとしましょう。

絵描き村に居たときは、絵描きのお父さんがいて、お母さんが居て、たくさんの兄妹がいて、私は筆だけを持って生活していました。
彼らは、血が繋がっている家族ではないけれど、私の大切な家族でもあります。


絵描き村では、自分起きた事を表現することはあたりまえのことで、絵を描くことは息をすることみたいなものなのです。色の粉を混ぜ合わせて、それに命を宿させる。

そういうことをしている人たちの村ですから。

 

絵描き村の住人たちは、絵や作品があると、言葉が違う国の人同士でも通じあうことができたりする。 

つまり、もう一つの言語を持った人たちでもあるのでしょう。

 

でも、私たちは作らない人のことが分からないし、

作らない人たちは私たちのことが分からないのです。


たまに絵描き村の人々が作ったモノが大好きな外の世界で暮らす人もいて、その人たちは絵描き村をよく訪れてくれます。

 

作ったものを通して、交流を深めたり、私たちは出会ったする。それは時には時代を越えていく。

私が知っていた外の世界の人は、そんな心優しくて友好的な外の世界の人たちばかりだったみたいです。

 

そうやって作っている人間は、作品を知ってもらうほうが自分を知ってもらうためには早かったりしますし、その人を理解するには作品なしでは始まらなかったりします。


それは、私たちの言葉だからだ。

わたしはそんな絵描き村の出身者だ。


わたしたちは、そんな時代や世代を越えた、喜びを知っているし、それに伴う苦しみや、深淵に出会うこと、興に乗ずること、

 

人間として生きること自体において、一種の信仰のようにして励んでしまうのです。

 

 

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Au commencement, la parole
la parole avec Dieu
Dieu, la parole
Elle est au commencement avec Dieu
Par elle tout est venu
et sans elle rien n’a été de ce qui fut.
En elle, la vie
la vie, lumières des hommes
et la lumière brille à travers la nuit
la nuit ne l’a pas saisie.

<la bible, nouvelle traduction, Bayard >

 

はじまりは、ことばであった。
神はことばと共にあった。
神は言葉であった。

この言は、はじめに神と共に在った。
全ては言によって成り、
言なしに成ったものは無かった。

言のなかには命があった。
命は、人間を照らす光である。
光は、暗闇のなかで輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。


ヨハネ福音書の序文を引用してみます。
私はキリスト教徒ではないけれど、この序文がとても好きな文章でもあります。
膨大な過去の絵描き村の住人たちが残した作品たちに出会うたびに、そんなことを思いだしてしまうのです。

 

 

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今日も朝から制作が始まります。

私の作品は、私自身が姿を変えた姿を描いている。

私のなかの女王さまの姿を描きたくて、この絵は描いています。
他にも沢山の姿を変えた私が登場していくでしょう。

 

7時になったので、今日もまた外の世界の人間に変身する。

 


今日も、良い日でありますように。

遠くに居る人へ、私へ。

 

今朝方の監守 制作メモ2018.05.23

 

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2018/5.23 AM4:56
起きて3秒後から制作がはじまる。
ここは監獄みたいだなと、朝が来るたびに思う。ここに暮らし始めてからずっと。

 

大きい絵を描き始めると、その監獄にとても友好的で圧倒的な監守がやってくる。
私の中で一番偉いひとだ。

 

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今朝は、下絵の作業を前日に終えて画面に入った。
下絵を白いアクリル絵具で定着させた時に絵はすでに生き物に変わっている。

絵という監守は自分とは別に意思を持って、色をのせることを要求してくる。
一つでも間違った色をのせてしまった時点で絵は死んでしまう。

 


絵も私も必死だ。

私は今までに大きな絵をここ5年で2回死なせてしまったことがある。

これは、知性と身体を使った、
恐ろしく神経を使う作業でもある。

 

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AM5:46

大きな絵を描くためには、文章を書く何十倍もの頭をつかって色を算出する作業を求められる。

何十本もあるチューブの色をどのように組み合わせて使うべきかを、自分の頭の中がゴリゴリと音を立てて演算している。

監守が命令してくる。


「集中力が途切れている!わたしに筆をのせるな!」

 

そうなると、おろおろと私は手を止める。そして、ベッドに倒れこんで、絵を眺める。
また演算が始まる。これをずっと繰り返す。

 

絵を描くために使う頭は、一番説明することが難しい物事を扱っている。
俗に言う、"不可解"っていう生き物だ。
言語野の近くの、生きるための根に近い部分が、命令してくる。

 

頭の中で、絵を描く頭が反応する部分と、
人に惹かれるとき反応する部分ほとんど一緒でもある。

 

誰か人に出会って、絵を描く頭が沢山反応してしまうっていうのは、

私にとって、とても大変な事態で大事件だ。


そんなの、考えたって分からない。不可解だから。

 

そんなことは滅多にない。

 

絵を描くマグマみたいな部分がざわざわ騒いでいるのに、ずっと抑え込んで生活していると、
それを勘違いして、その人を撫でたいって思っているのに、パンチを繰り返してしまう。

 

相手にとっては、事故みたいなもので申し訳ないことが多い。理解されないと悲しい。


若しくは、その人を求める部分を勘違いして、絵を描くスイッチが強制的に入ることもある。

 

後者ならいいけど、前者だとつらい。

ともかく凄い不便だ。


わたしの頭の中では大事件が起きていて、絵が描きたい本能的な自分が一番偉い。

とっても動物的で、自然な人間としての私の姿かもしれない。

 

そして、良い絵になりそうなものを描いてるときはお腹が殆ど空かない。
食べないと倒れてしまうから、口にとりあえず放り込む。味がよく分からない。

 

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それから、絵を描いたあとの自分の手が好きだ。
いい絵になりそうな時は、特に良い色をている。

自分にとっての自然な姿を取り戻している気がして、久しぶりにすっきりしている。
でも、ここから先、物凄い急勾配と負荷がかかって苦しくなるのが容易に想像できる。

初めて見る世界に出会うために黙々と筆を動かす。

腑に一切落とさない。落とそうともしない。不可解そのもの。
誰にも媚びちゃいけない。
私が描いているのは、私になかの不可解さだ。

 

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7時になると、筆を綺麗に洗って全ての道具を定位置に並べる。

そして、OLになる準備をして出かける。
どっちが監獄なんだか分からないけど、今回はたぶん良い絵が描けるはずだ。