ドラァグクィーンになろうと思うという話。

 

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30代を前にしてドラァグクィーンになろうと一念発起しました。

 

ドラァグクィーン

ドラァグクイーンの起源は、男性の同性愛者が性的指向の違いを超えるための手段として、ドレスやハイヒールなどの派手な衣裳を身にまとい、厚化粧に大仰な態度をすることで、男性が理想像として求める「女性の性」を過剰に演出したことにあるといわれる。

本来はサブカルチャーとしてのゲイ文化の一環として生まれた異性装の一つであるため、ドラァグクイーンには男性の同性愛者や両性愛者が圧倒的に多い。しかし近年では男性の異性愛者や女性がこれを行うこともある。また趣味としてこれを行う者からプロのパフォーマーとして活躍する者まで、ドラァグクイーンの層も厚くなっている。

MtFトランスジェンダー(肉体は男だが心は女である人)が女物の服を着るのは「女性になる」または「女性として見られる」ことが目的であるのに対し、ドラァグクイーンのそれは「女性のパロディ」あるいは「女性の性を遊ぶ」ことを目的としている点が大きく異なる。

 

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドラァグクイーン

 

ドラァグのメイクを自分にしていて感じたこと。それは物凄い健康的で開放的な気持ちになれたことでした。

 

女性も男性も一回体験してみた方が良いです。

"あ、ジェンダーってこんなに愉しいものなんだな"と理解することができます。

 

Dragは女性の美を強調して鋭利にしたパロディ文化で、シス男性社会に対するアンチテーゼを含んだ美しき表現だと私は思ってます。

 

少なからずとも、だれしも社会が求める女性であったり、男性で在り続けなくてはならないことに生き辛さを感じたり、嫌になったりしたことはないでしょうか?


私は、気づかないレベルでのそういう気持ちが実は、差別を生んだり、自分とは違うものに対して優しさを持てない原因を作っていると考えています。

 

ドラァグと普通のメイクが決定的に違う点は、その派手さではなくて”性を超越していく”ところにあります。

 

普通のメイク、女性の大半は自意識を守るためにメイクをしている部分があるでしょう。

というか、そういう気持ちで少なからずとも十数年していた自分に気づきました。

 

綺麗にみられたいとか、愛されたいとか、可愛く写真に写りたいとか。求められる女性を演じている自分になるためにあったのです。

 

簡単に説明すると自撮りの写真ってみんな表情が大体一緒じゃないでしょうか?

そんな感じです。


若い子でも、年齢を重ねていても関係なく怨霊みたいに、そういうものが沢山の日本にいる女性にへばり付いているように感じます。凄く自己肯定感が持てない、心細い状態。


それには「女の子は化粧しない方が良い」とか「ナチュラルメイクが良い」とかいうロリコン日本男性陣の呪いみたいなものも含まれていて、メイクはもはや自己防衛の手段のようになってしまっています。


そういうセリフの中にあるものが、本当のわたしでない「求められた女性メイク」にさせていたり、自らがなろうとしてしまっている。つまり、女性と男性の両方サイドからのこれは呪いだと思います。(なので、めんどくさいので私はよくすっぴんで現れます。笑)

 

同じようにして、男性陣も”求められた像”になろうとして見事に拗らせてしまっているということでもあるでしょうし、生き辛さを感じてしまっていますし、普通の男性は圧倒的に生き方に多様性がないことに気づいていなかったりします。

 

これはお互いがお互いを窮屈にしてしまっているということではありませんか。なんて窮屈なことでしょうね。

 

その中で性を超越していく原体験は、自身のジェンダーや生き方をポジティブに向き合っていくきっかけになるのではないのかなと私は考えています。

 

 


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ドラァグのメイクをしていると自由な表情で写真にもどんどん写りたくなります。ともかくメイクが愉しい。

 


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体形だって、胸無きゃ盛ればいいし、無いのも無いのでセクシーですからね!💚

 

そんなワケで、研究していこうと思います。