なぜ萌子さんは表現するの?って聞かれた。
なんで表現するの?
と友だちとアイデア出しをしているときに、聞かれました。
その時、わたしは何か色々言ったけど、その表現は自分にとっても全くクリティカルではなくてヘコむ。
ちゃんと、今の時点で自分が出来る全てを使って、ベストで答えたくてこの文章を書くことにしました。そんなわけで絵本も描くと思います。
取り敢えずここまでに3日かかったので、聞いた本人は忘れているかもしれないけどね。笑。
始めにこの質問はわたしにとって、
何のために生きるの?
と同義語だから。これはとっても大切な質問なのです。
おそらく、分かりやすい舌触りの良い回答にはならないと私は思ってるし、それだからこそ、リアルな言葉として読んでもらえれば嬉しいです。
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なぜ表現するか。
なんのために生きるかの話。
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最初から意味不明かもしれませんが、私は、長くても80年くらいの滞在で地球に観光しにきたと思って生きています。
身体を持って人間として生きること。
という観光旅行に来ました。それは、すごくままならないことだらけで、愛おしい旅行なのです。
旅行というと、どんなことをして、体験して、帰ろうか。旅行者は考えます。
出張も旅行だし、観光も旅行だし、留学も旅行だし、目的はそれぞれ。でも全て旅行。
そして、大切なのは、これは最終的には
「ひとり旅」だということです。
人が死んじゃうことはきっと任期を終えたり、急な呼び出しで帰らなきゃいけないことでしょう。
だから世代が違くても、いっしょでも、一緒に時間を過ごせることは、旅先のバスで相乗りしたような"心地良いこと"なのだと思うのです。
だれかに出会って、起こったことや思ったことを表現する。愛することや悲しむこと、色んな人間の営みを考えること。誰しもがぶつかる人間であることに向き合うこと。
私は、考えること自体が大好きなので、昔の職業で言ったら哲学者が向いていたかもしれません。
私のしている作品をつくることは80年の滞在時間よりもっと長く地球に残ることもあるので、この滞在を終えたあとに、それを他の地球滞在者が読んだり使ったりする、ゲストブックであったりガイド本などの旅行記作ってる作業かもしれません。
先人たちが残したゲストブックやガイド本を読んだり、観たりすると、時を越えてなにか「ひとり旅」も楽しくなるってものですから。
昨日兄弟みたいな友だちたちと行った冬先の東北は柳田國男の遠野物語の世界でしたし、つげ義春の漫画の世界でした。
私はそんな世界を眺めながら、同じように地球観光する未来の人に私の生きた"時間"を残したいのです。
わたしの"ひとり旅"が時を越えて伝わるように。
ふたつめの理由はこの「ひとり旅」をしていて、だんだんと自分が、決して下の世代ではないということを認識してきて思うようになったことです。
まず利害関係というのが、どうやら一般社会や人間には絶対あるのですが、私は幼い頃からあんまり人の気持ちとかが分からないしそれが極端に理解できなくて結構痛い目にあっています。おまけに迷惑もかけたりしてます。結構な確率で嫌われます。
だから、利害関係がとても苦手で、あまり人様にはプレゼント出来ることが少ない人間なのかなと思ってます。
その中で、ずっと作っている世界にいることは、沢山の人に作品を通して優しくしてもらったり、私のコミュニケーションの不自由さを許してもらったり。生きる場所をプレゼントしてもらった気持ちでいて、作品はそのお礼になったらすごく良いことだなと思っています。
そんなわけで、私はこんな生き方をしている手ぐせもあり、自分が旅をしていたり出会った人や場所という情報をキャッチしてしまうと、「なにか出来ないかな」とすぐ考え出してしまいます。
昨日も蔵王でこけし屋さんに入ったのですが、80歳のおばあちゃんが「向かいのお店のおじいちゃんも90歳になって去年お店を閉じてしまった。自分たちもあと少しかもしれないと」とちょっと悲しい顔で話してくれました。
そこにある何百ものこけしはどれも、長い時間を経て造られた文化という作品としてすばらしいものです。
蔵王の温泉の湯けむりと、こけしに囲まれていると、この場所の春夏秋冬の光と時間が場所とモノを伝わって入ってきます。
これが、無くなってしまうかもしれない。何か新しい作品に転換できないか。と私は考え始めます。
そこで、こけしたちの記憶にアクセスし始めます。この写真はそうやってる自分の記録です。
まだアイデア段階ですが、新幹線の中で思いついたのは、こけしは女の子の身代わりになってくれたり幸せを願って作られたモノで、「思ってもらう」ということの依代です。それを体感できる装置を考えれないかなと。
もえこけしオペレーティングシステムとか作ったら面白いかなとか。(これはそのうち協力を色んな人に仰ぎたいです)
こうやってこの文化が何故出来たか、そして、それが今の自分たちにコミットする点を生み出して、古きと新しきを混ぜ合わせれば またそれが人に触れて、また別の形で、文化の命を延ばせるかもしれないと思うのです。
私は実際にそうやって旅をしていく中で、消えてしまうかもしれない文化に向き合って作品を作ったりします。
もしくは土地に残る消えてしまった記憶を掘り返す作業をしたりします。
人間が作ってきた文化が愛おしく、感動するので、私も形を変えてその命を繋ぐ一旦になりたいのです。
お面をつけたわたしは、私のペルソナの姿で、私の描く顔たちはわたしの子どもです。
私はどちらかというと、こっちの自分にいつも大きく引っ張られていて、このシンプルな増殖活動が生きてるうえで生命体としていちばん大切なことになってしまい失敗も多かったりします。
三つめの理由。
その始まりを思い出すと、子どものころまで遡ります。
それは、いつも自分は透明なドームの中にいて外の世界を眺めているような感覚で生きてました。もちろん友だちもいたけれど、私の空想や見た世界で再構築されたその世界はすごく綺麗で完成されていて誰も入ってこなくてもいいかなと思ってました。
子供のわたしは絵も対して上手いわけではなかったけど、11歳くらいに私の空想の世界を描いた絵がたまたま選ばれ、絵の説明を求められたことがあります。
その世界の説明を約7cm×15cmの紙に文字で書けと言われました。その絵の空想の話は原稿用紙10枚くらいの内容だったので、私はその小さな紙に書けるだけ細かい字で書きました。読めないくらい小さな字で、もちろん、それは伝わるわけがない。笑。
なので先生に言葉で説明を求められたけど、ボキャ貧でまた伝わらない。笑。
最終的にその説明文はセンスの全くない言葉で三行で先生が書いてしまいました。
私にとっては、それが一人で隠れて泣いてしまうくらい、憤りを感じたショックな経験だったのです。
その経験は私の住んでいたドームの中の世界にひびを入れて、そこから大量の水が流れ込ませるもので、それが、私が無防備に社会に向き合った初めての経験だったのかもしれません。
今まで多少まわりから理解されなかったり、大人に自分の生い立ちや、なんらかんら言われても、自分の世界があるから大丈夫だと思っていましたから。
私は片親育ちで、横浜の母の実家で甘やかされまくりながら育っていて、若い時のバックパッカー母のへんてこりんな個人主義教育により、勉強は出来るけど「へんてこりんな子ども」でした。
特に先生や友だちの親など、平均的であることを求める身内でない大人の存在は私にとってかなりの脅威で、ちょっとでも変わったことをすると、何故か母の悪口を言われます。「あの子は片親だから」と。そんなわけで、普通とか常識とか何とか言うものに対して全く親和性が持てなくて、普通アレルギーにいつの間にかなってました。
虚勢を張っている母の後ろ姿もよく知っていたので、私は自分の世界に住んでいることで、そうやって外の世界を無視してました。外の世界は初めから脅威だったのです。
今思うと、普通や常識的な自分だったらもっと人に嫌われないで済んだ気もしていますけどね。汗。
怪我の巧妙で、水浸しになったわたしは途方に暮れましたが、水漏れ箇所に取り敢えずガムテープを貼って眺めていると、まだ少し水が漏れていることに気づきました。脅威は依然として続いてますが、その水に興味が湧いたのです。
これが、人間って何だろう?の他人に興味が湧いた始まりかもしれません。
水とは人の情報や外の世界です。
水があると、私の世界では新しい植物や生き物が育つようになりました。
そこで生まれたのが、あの顔たちなのです。
彼らは外から入って来たもので生まれた存在ですから、外の世界と仲良くすることも出来ます。
実は未だに、このひび割れはずっと直らなくて、ガムテープを張り替えしたり、興味本位で剥がしたりするとちょくちょく水浸しになるので、気をつけながら人や社会に関わってます。
最後に、こんなことを書いていくと、なんかとんでもなく落ちこぼれ人間な気もしますが、
私はなぜ表現をするかというと、限りある地球の滞在時間を、自分が人間であるということを実感して嬉しくなるためにしていると思うのです。
そして、あれこれ、たくさん考えること自体が好きで、それが具現化することは自分が世界にはみ出した気がしてがわくわくするのです。
ある人からみれば、私は少しは広めな世界で生きてるように見られることもあるかもしれませんが、私にとってはどこにいても、おそらくずっと自閉的なままで、自分の世界がちょっとはみ出たくらいなのかなぁと。思うのです。
こんな感じです。
そして、私はとてもこの話をしていたみんなに聞きたいなと思いながら文章を書いてました。
何のために生きるの?
どんな時間を生きたいの?
と。