ハイパーグラフィアと狂人の空箱 「書きたがる脳 言語と創造性の脳科学」を読み進めて

ハイパーグラフィアと狂人の空箱


ハイパーグラフィアという言葉を知っているだろうか?

私自身も本書を読んで初めて知った症状だった。ハイパーグラフィアとは、脳の不具合から、文章を書きたい(表現をしたい)という抑えがたい衝動が起こり続ける「書きたい病」という病気らしい。


少なくとも社会の中、とりわけSNSで私たちが文章を書いて発信することはありふれている。だれしも「いいね」や「♡」を貰って、自己承認されたいという欲求を持つだろう。


そんな外の世界(それは小さい大きいとも関わらず)に向いて手を伸ばす。

それは、人としてありふれた欲求だ。


その欲求を根源に持つ、ひとつの方法として表現があると私は感じる。しかしながら、芸術といわれる表現になるまで強さのある表現に辿り着くことは、また別問題でもある。ここまで行くためには猛烈な筋力が必要となるだろう。


表現すること。

その根源はどこからやってくるのだろうと、本日は言葉を使った思考の散歩に出てみようと思う。

 

外の世界から眺める人


表現する人たちの中の世界から放り出されて、外の世界で外国人のようにして佇んでいると、それまで見えなかった世界を見ることになる。人間のその表層を越えて地下水脈ように流れる部分を探したくなる。表現したいという欲求に憑かれた人間は生きやすいのか、生き難いのか。思いをめぐらせながら本を開く。

 

f:id:kudomoeko:20180601075724j:image

https://amzn.to/2LcXemT:書きたがる脳 言語と創造性の科学

 

今読んでいる、「書きたがる脳 言語と創造性の科学」( アリス・W・フラハティ著, 吉田 利子訳)という本は、著者で医師でありハイパーグラフィアであるアリス氏がその症状についての、病気と才能の間を考察し、創造性の根源ついて著した本だ。


ハイパーグラフィアとは、毎日圧倒的な文章を書かずにいられなくなる症状を持った人間を指しており、それは特に文章が上手な人がなるわけでもなく、誰かに読まれることや賞賛を期待することもなく、多くが自分の自伝的なことや感情を憑かれたように只管に書き連ねるという症状であるらしい。


また、それ自体に信仰的、宗教的な意味を持ち合わせており、重度の患者の場合、一種の自閉的空間を彼らは持ち合わせている。

ハイパーグラフィアはその中でも時代にあわせて人間の文章を扱う量に対して著しく多い人間とも言えよう。

 

彼らは脳の側頭葉に変異をもっていることが多く見られ、ハイパーグラフィアはてんかん症状もしくは躁鬱症状を持つ人間に見られる症状らしい。

 

先天的な身体的特徴と病気のあいだ

 

この本に出会ったのは、進化心理学認知心理学者のスティーブンピンカー氏のTEDにて、丁度彼の著書も読み進める傍らタイムリーに、脳は誰しもが平等に機能が備わった「空白の石版」では無いということをスピーチしているのを観ていたのもあり、興味が沸いて購入したのもある。


アリス氏の本は、表現することについて先天的な身体的性質と後天的な能力について考える上で、様々な思考を喚起させる本でもある。


著者はその症状を持った人間が持つハイパーグラフィア的な「書くこと」への素質を”情熱”と読んでおり、ドストエフスキーゴッホモリエールなど多くの表現者がその傾向を持っていたこと示す傍ら、その情熱は殆どの場合、見られることなく「狂人の空箱」へ葬られていくものでもあることを示唆している。

 

そして、その情熱は人間が持つ”世界と繋がりたい”という根源的な欲求が変容し具現化へ向かうエネルギーなのではないかと私は感じる。

 

そして、なによりもこの本を面白くしているのは著者自身が医師でありながら、精神病院に入院経験もある人間である彼女が、堂々と、投薬治療によって正気であるよりも、ハイパーグラフィアである狂気の中に合って創造性を働かせていた方が楽な状態でいれたということを記していることでもある。


もちろん数多くの文章家がその衝動について文章を残しているが、多くの音楽家や美術家にもハイパーグラフィア兆候のある作家は多く存在している。

その情熱が鍛錬により具現化しつつ一般化したものが現存している作品だとすれば、その鍛錬は環境によって齎され、情熱は本人の身体的特徴からなるものだと私自身の感覚からも感じる。


表現においてその過酷と思われる部分。

それは鍛錬の先にのみ、"その先"のフェーズへと繋がりが無いことでもある。その先は創造物との物質的な感動や人間との感動とも言えるかもしれない。


ハイパーグラフィアは適度な自己承認を欲するがゆえに書くことに根源に持たない、つまり、自他のコミュニケーションの方法として制御して書くことをしない。止むを得なく書いている状態でもあると著者は記す。それはアンデルセンの童話の赤い靴の踊り子で暗喩的に描かれた様な止め処も無い生理的反応でもある。

 

 

狂人の空箱と情報の川へ


多くのハイパーグラフィアがその情熱を燃やして書き連ねる文章は狂人の空箱に投げ込まれてきたのだろう。

 

そんなイメージが本を読んでいて浮かぶ。


インターネット上にいくらでも、こうやって自分の書いたメモを載せることが出来る時代において、その「狂人の空箱」は想像がつきやすいのではないか。

 

誰もが繋がりたい欲望をもち

それを具現化した箱に

人々は文章を書いて投げ込む。

その膨大な情報は空箱だ。

私たちが投げ込んだとしても

そこから同じだけの量の情熱は還ってこない

 

彼らの生きている時間を使って作られた、この狂人の空箱に投げ込まれる情報。儚くも脆い希望かもしれない。

繋がりたい。手を触れたいという表層にはない欲求を紙の上に広げる。

ただひたすらに拡げていく。


多くの祈りに似たそんな言葉たちは、どこに行くのだろうと私は水の流れを追うように眺めてみる。ハイパーグラフィアまで行かずとも、一般的な人が紡ぐ言葉の中にも、実は彼らの言葉に通じる川が流れているのではと私は感じている。

 

文字の咀嚼量の危うさ


こうやって、私の綴っている文字も含めて、この場所にある言葉はあまりにも脆いような気がしている。言葉は文字情報とも言われる。私たちが毎日接する文字といえば、スマートデバイスの画面上で流れる文字情報であり、言語や画像だ。一般にこれらのデバイスを使ってユーザが1度に読める文字量は500~1000字ほどといわれている。(実は私の書いているこの文章もここまでで約2300字を超えているので、画面というメディアに対して書きすぎなのかもしれない

そして私の出会う殆どのこういった情報がSNSを通して出会う情報でもあるだろう。

私たちが普段触れ合っている文字情報は、このような性質の情報処理を何個もこなしているだけとも認識できるだろう。


画面上に溢れている情報の性質に焦点を当てると、記事といわれる画面上の情報。

その文字量が減るということは、その一つの纏まり(群)としての情報自体は”節約された情報”になることを求められる。

 

これは、詩篇やキャッチコピーという名前のような文字列であること。つまり、それ自体が有機的で洗練された情報であることを差すわけではなく、食べやすく均等に整頓され、節約され単純化された情報という食物であるということでもある。

そして、この情報たちの存在は、この画面からSNSを通して繋がることのできる無限にある記事広告を想像してみればいとも容易く理解できる。


私たちの歯は、進化と共に食物に合わせて、顎を細く変化させてきている。それは食物自体が咀嚼力を必要としない方へ改良されてきた側面もあるが、言語においてはこの側面は一長一短でもあると言える。

つまり、画面上の記事を読む作業は情報処理量は多くなっているように見えるが、これは摂取している一つ一つの情報の有機的な多様性は均一化し薄くなっていることも指しているのだ。


画面に流れる情報に対して、本というメディアとの比較として文字量について考えてみる。

一冊の本は約350ページ×800~900字=30万字ほどになる。書物1冊で1つの思考を述べるにしても、1記事との差は30倍にも及ぶ。情報量の差は読むペースは個人に依存するとしても、その量だけ見ても二者には、読み取るために使う体力や、理解する過程で得る微細なニュアンスには差異が出るだろう。

 

私の読む速度は平均して学術系の本で時間当たり80~100ページほど、小説などで150ページ程なので、分当たりだと1100~1700字程度だろう。私自身私が日常的に本を読むようになったのは大人になってからの事で、その大きく多様性のある言語情報を扱う力は、大作の絵画を制作していくようになっていく筋力をつけることに近いこととも感じている。

 

文字情報の寿命と堅牢性


節約された情報を扱う短所を挙げるとすれば、そのような情報取得の中で、有機的で多様性のある情報を拾う能力が落ちる(慣れ親しんでいない状態になる)ことだろう。

そして、自身が持つ文字情報自体の堅牢性についても無頓着になるということを懸念せざろう得ない。特に個人の発信する(表現する)情報に対してその点が強く感じられる。


個人の発信する情報自体の堅牢性とは、その文字情報が持つ時間的な寿命を指す。例えばSNSにおける情報の伝達の寿命は即効性を持つが、殆どの弱小の情報は直ぐに伝達性を失い、膨大な情報の塊へと吸収される短い寿命の情報と言えよう。

 

それはつまり、情報の死。

その集積物となってしまった情報は実存性を伴わないことを示す。すなわち情報の特質として、SNS上の文字情報とは総体的な情報のかたまりとして情報自体が生命を持っており、その中で人間である私たちが生存していることも指している。

また、この中で最小単位の文字情報はこの大きな生命体の内で生存戦争を行い、殆どが命を失い集積物となる死を遂げる。

 

私たち一人ひとりが持っている情報という生命力をその総体としての情報の生命活動へ捧げているような状態であり、個人の生命に対してのある種の脆弱性を示唆する。どれだけ個人が堅牢性のある、文字情報を持ちえているだろうか?

 

絵画という文字情報、物質性について


絵画という文字を扱っていると、一つの情報を画面に定着させる際に、非常に有機的な物質性との関わり合いを求められる。

絵の具の粒子の大きさ、乾燥速度、支持体(画面)との関わり。これ自体が物質であるので、絵画は、それの持つ文字情報としての時間的な堅牢性を、体感的かつ物質的に扱い知ることが出来る。

絵画はその物質としての寿命を持つため、節約された情報に比べ、個として”生命力のある”(繁殖力ではなく)文字情報だと考えられる。これは書物にも同様なことが言える。


現在SNSのアクティブユーザ数は上昇の傾向を続けており、その生命体としての堅牢性は衰えを感じない。しかしながら、この10年後に、この巨大な生き物に対して、最小単位の情報がどこまで生存しているかと言う点、つまり私たちがバラエティを持ってアクセス出来るかと言う点では疑問が残る。


ハイパーグラフィアの連ねた文字と私たちが連ねた情報は、実は似つかわしくも、狂人の箱に放り込まれていく。そう感じてしまうのは厭世的すぎる見方だろうか?

 

物質性の中の揺らぎ


物質性には”揺らぎ”が生じる。この揺らぎは音に似た性質を持っているだろう。

思考から思考へと展開を重ねるその間の揺らぎを、書物の文章の塊に身を沈めるとき自然と読み手はその手で触れている。同じくして絵画のなかにもその”揺らぎ”が物質的に生じており、その生々しさへ手を触れている。

これは画面に流れる"画像の絵画"ではなく、"実像の物質絵画"を指している。揺らぎには種類があり、その個である膨大な情報から生じる揺らぎは、多くの時間を伴った揺らぎでもある。


時間は相対的ではあるものの、絵画における文字量と文章における文字量は、その「ゆらぎ」において似た性質を持っている。その密度や質において良し悪しがあり、その極地はLogos(ロゴス)という言葉に指される具現化されたものへ向かうことを示している。


ロゴス(logos)とは、古典ギリシア語の λόγος の音写で、

 

  1. 言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、言表、発言、説教、教義、演説、質問、伝達、文、口、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、神、運命、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮などの意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。
  2. 万物の流転のあいだに存する、調和・統一ある理性法則。
  3. キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。

 

ロゴス - Wikipedia

 


ゆらぎと言う言葉は量子物理学でも扱われる言葉でもある。「量子ゆらぎ」という言葉があり、ヴェルナー・ハイゼンベルク不確定性原理に説明される。量子力学に従う系に伴う物理量のゆらぎである。これは、測定値による誤差ではなく、量子力学的な効果によって、原理的に存在する、確率的なゆらぎを指すらしい。

 

量子論的ゆらぎ。無(真空)の中から、量子がゆらいでいるものとして存在し生産され引き伸ばされ続けるという事象があり、これは宇宙の始まりとしては有力な説でもある。

 

表現に向かう中で具現化される揺らぎはその始まりのゆらぎに、人間が立ち向かい出会う行為でもないかと私は感じる。

 

 

思考の散策そして狂人の空箱へ


大分遠くまで来た気がする。この文章も画面で読むには長すぎると感じるがここまでお付き合いいただいた方がいたら、一緒の景色を見れていればと思う。

無責任ではあるが、そろそろこの散歩も今回は終わりにしようと思う。


思考を言語化していく作業は、森の中をのろのろと駆けているような気持ちであったり、時には無機質で光の強い清潔な町のなかに佇んでいるような、様々な感覚になる。

 

そして、私がこうやって淡々としている文章も、いつかは狂人の空箱へ飲まれていくのではないか。

ハイパーグラフィアの感ずる表現で受けることの出来る信号とは、このような人間ではない何かに向かい、思考そして書き綴ることによって得る体験ではないかと考える。文字を綴ることは、そういった精神の不可思議な臨界点に近づく行為でもあり、揺らぎの中に自身の祈りを刻む行為でもあるのだろう。


実はここ2年ほど、絵を描くことに加えて、ほぼ毎日のように文字を書くか、どちらかをし続けないと、どうしようもない自分がおり、非常に近しい部分で、この二者の創造を行っていることに気づいてもいる。

 

私自身がハイパーグラフィアなのかは、なんとも言えない。しかしながら彼らの出会っている苦しみと喜び、果てに近づく感覚は共感できる部分があるのではないかと感じる。

 


さて、散歩を終えて帰ろう。

遠くに行き過ぎると自分を保てなくなりそうだ。


帰路。