こっ恥ずかしいラブレターを書く事情

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こっ恥ずかしいラブレターの研究のために明治から昭和初期くらいの古今東西の文筆家のエッセイや手紙を読み漁っています。


といっても、そこでとってもこだわって書いても伝わらないのが気持ちで、その前に究極に横たわっている諸事情もあり、そんなことよりポピュラーな方法でお相手のことを考えたら?とアドヴァイスされるも、ポピュラーな方法が全く分からないのと出来ないのとで、そんな不毛に見える作業ですら、なにか楽しくなってしまう。凝り性の滑稽さだと思う。

 

こっ恥ずかしいラブレターを書くこと自体は、絵と似ていて自分との戦いだったりします。どのような仕掛けを入れて、方法をつかって、何を表面上に残していくか。只々日本語で手紙を書いていてもなにも仕方ないので、とほかの言語で書こうと思って調べ始めると頭の別の場所が刺激されて愉しくなってくるのです。これが困ったもので副産物。このあたりで目的のすり替えられてきてしまって、なんか満足してきてしまうから、気をつけなくてはいけない。さらに、基本は大真面目に書かないとこっ恥ずかしいラブレターにはならないのです。

 

そして、こういうことを毎日ずっと続けることはトレーニングになるのでとても良いことだと思いもします。毎日の短い読み物をひたすら綴っていくこと。こっ恥ずかしいラブレターを書くことは、文章を書くこと、言語を勉強すること、愛することのトレーニングになると思うのです。


それには、わたしにとってトレーニング甲斐のあるお相手がいないとダメだったりしましょう。

それは、ちょっとやそっとで動かない心や価値観の違いを持っているお相手。
圧倒的に不利な状況を愉しむことができなきゃ、面白い作品は作れないと、私は思っています。それは私がお手紙を書いているお相手のとても尊敬しているところなのです。

だから、私は同じくして毎朝、こっ恥ずかしいラブレターをしばらくは書き続けようと思うのです。

これ、読んでいてくれてるかしらね?

 

先日、谷川俊太郎氏が編纂した「恋」という随筆集があり非常によさそうな匂いがしたので買ってみました。様々な文筆家の文章がのっていまして、その大きなモチーフに対して様々な切り口が谷川さんのセレクションでセンス良く並びます。引用ばかりではぐらかしたり、自身の経験を綴ったり、または世相を論じたり、奥様に気を使ったりと幕の内弁当を食べている雰囲気で読み進めます。そして100年前も50年前も今もあまり事情は変わらないのではと思ってしまう辺りに、このモチーフの普遍性を感じたりするのです。

 

読む中で、福永武彦の文章に心がとても惹かれてamazonでポチりました。福永武彦は(1918年(大正7年)3月19日 - 1979年(昭和54年)8月13日))日本の小説家、詩人、フランス文学者。ボードレールの翻訳家であり、モスラの原作を執筆した人だったりします。
この本に載っていた福永武彦の「自覚」という文章の冒頭を引用します。

 

”愛する者は自己を忘れて、しばしば盲目的に行動するし、それがまた情熱にはふさわしいのだが、しかし人間の魂は決して愛することだけで充たされる筈はない。つまり自己の孤独を忘れるほどまでに熱中するというのは、彼の持つ孤独が脆弱であるか、或いはその脆弱な孤独を自分でも嫌っているからであり、その場合の孤独は、彼自身の本質をなすものではないから、愛は単に孤独からの脱出となる。このように自己の孤独を無視して相手のことばかり考えている人間は、結局は相手の孤独をも無視しているのである。”

 

孤独との関わり合い方。どんな他者を関わっていようと社会にいる限りはその孤独はずっと付きまとうもので、そこを「紛らわせてくれる」もしくは「満たしてくれる」他者の存在や物質を求めたりする。それを”癒し”というのかもしれないのです。

 

その需要と供給のバランスで関係が成立したりする。現代的な恋愛についての解釈を読んでいくとその物質、もしくは非物質的な等価交換に大してのハウツーにスポットを当てているものが多いと感じますね。そこに人間そのものとしてのお互いの尊敬は生まれるのかしらと思ってしまいます。

とはいえ、すんごく読むけども。笑。だって分からないことの方が多いから。

 

福永武彦の言葉を借りるとすれば、私にとっては、誰かの存在や関係性において与えられる、もしくは副次的に生まれる”自己の孤独”が猛烈なコントラストとして表現する燃料に直結するのは否めませんし、相手の孤独に寄り添うこと自体が平坦な方法でなかった場合には、それは自ら孤独に果敢に向き合うことにニアリーイコールではないかと。

 

そして、思うのが自分の価値を相手の価値を映すことで測ってははならぬと思うのです。
更その人に差し出せるものは無いだろうか?と延々と考えるうちに、どこまでも自信を失っていく。それを恋というのではないかとさらに付け加えたいものです。

 

わたしには今、差し出せるものなんて、あなたが言うにタイミングの悪さでなんにもありませんし、私は自分で好きでこっ恥ずかしいラブレターを書いているのです。信頼して投げているのです。

 

「愛はケチしちゃ、だめなのよ。」

 

と、岡本太郎の養女の岡本敏子さんは言葉を残しています。


文章も絵も毎日いかにトレーニングするかが重要で、それは自分がどのように生きるかと同義語な気がしているのです。

 

 だから状況を愉しもうではありませんか。

つまり、たのしいのです。